「鈴木翔平(すずき しょうへい)です。よろしくお願いします」
 高校生活1日目。
 僕は県内でも有名な進学校に入学した。
 受験勉強は少し大変だったが、無事この学校の制服に袖を通すことができたのは、純粋に嬉しかった。
 クラスでは定番の自己紹介が進んでいた。
 僕はごくごく簡単に自己紹介を済ませると、さっさと次の人へバトンを渡した。
 自己紹介を聞くクラスメイトたちは、誰と友達になれそうか考えているようだった。
 僕にはそんな積極性はない。
 むしろ、地味に目立たず高校3年間を過ごしたいと願っていた。
 だから他の生徒の自己紹介にはあまり興味を持てず、肘をついて外を見ていた。
 グラウンドは広く空は青かった。
 桜は残念ながら散っていた。
 しかし、グランドの周りに並ぶ桜は、葉桜のピンクと緑が鮮やかで、とても美しく感じた。
 この景色をこれから3年間見て過ごすのか。
 僕がそんなことをぼんやり考えていると、ホームルームを終えるチャイムの音が鳴った。
「よし、自己紹介はこれで終わりだな。明日から一応授業が始まるからな!」
 担任の言葉にクラス中がざわめいた。
「まぁそうは言っても、最初は各先生の挨拶がほとんどだ。厳しい先生だと授業も始まるが、覚悟して学校来いよー!」
 冗談めいた言い方をする担任に、ホッとする女子生徒たちと、早く解放してほしい男子生徒たちの声が教室内を満たしていた。
「じゃあ挨拶をしよう。まだクラス委員も決まってないから、出席番号……最後のやつ! 山本~! 号令かけろ~!」
 こういう時、出席番号の1番の生徒を指名することが多い。
 1番の相沢という生徒は号令をかける気でいたし、最後の山本という生徒はそんなこと気にも留めずに前の席の生徒と話をしていたものだから、相沢も山本も驚いて目を見開いていた。
 なかなかおもしろい担任に当たったようだ。
「起立! 礼!」
 山本の慣れない号令を合図に、クラス中が友達作りの場に変わっていった。

「なあ、翔平って呼んでいいか?」
 突然声をかけられ、ビックリして振り返ると、そこには愛想のよさそうな少し幼い顔立ちの男子生徒が立っていた。
 自己紹介などほとんど聞いていなかったから、名前が分からない。
「あ……あぁ、いいけど……。そっちはなんて呼べばいい?」
 とりあえず名前が分からないということはばれないよう誤魔化した。
「俺? 自己紹介で言ったぜ! 健太(けんた)とかさえけんとか呼ばれることが多いな!」
 聞いていないことがあっさりばれていたようだ。
 僕は苦笑いをして頭を掻(か)く。
「すまん。自己紹介って苦手でほとんど聞いてなくて」
 佐伯健太はあまり気にしていないようだったが、僕は一応謝っておいた。
「気にすんな!」
 そう言いながら、健太は僕の肩をぽんぽんっと叩くと、風のように去っていった。
 あまりにも短い会話だったせいか、健太がここにいたのがまるで幻のようだった。
 健太はそんな僕を気にする様子もなく、新たな友達を作ろうとクラス中を歩き回っていた。
 同じ中学から来た人もいるようで、男女お構いなしに仲良くなっている健太の姿は、僕には到底真似できない分、少し眩しく感じられた。
「さて、帰るか……」
 呟きながら、先生に配られたプリントをカバンに押し込み、ふっと息を吐(は)いて席を立つ。
 教室内では、まだ友達作りに花を咲かせているクラスメイトたちが大勢残っていたが、そんな彼らを尻目に、僕は下駄箱に向かった。
 新しい教科書、新しいノート、新しい学生カバン、新しい制服と靴。
 何もかもが新しい今日は、なんだか少しだけ清々しかった。

「ただいま」
 静かに扉を開ける。
 カチャリと鍵を閉めると、玄関の定位置に鍵をぶらさげた。
 新しい革靴は少し硬く、靴擦れができてしまった。
 どこかに絆創膏(ばんそうこう)は残っていただろうか。
 僕は、そんなことを考えながら家に上がった。
「おかえり、翔平」
 奥の部屋から母の声が聞こえる。
 母はここのところ少し体調を崩していた。
 本当は今日の入学式も出席する予定だったのだが、どうしても熱が引かず家で休んでいた。
「ごめんね、翔平」
 わざわざ起き出して玄関まで迎えに来た母の顔色はまだ悪く、無理をされると心配になる。
 それに、謝られるようなことをされた覚えはない。
 高校生にもなって、入学式に親が来られるのは、正直少し恥ずかしい。
「何も悪いことしてないのに謝らなくていいよ」
 母を気遣う言葉の一つでもかけられればいいのだが、残念なことに口から出てくるのは無愛想な言葉だけだった。
「母さんは寝てなよ。今夕飯作るから……」
 自分なりに今言える精一杯の優しい言葉を使うと、母の返事を待たずに台所へ向かった。
 材料は学校帰りにいつものスーパーで買っておいた。
 今日は、鶏雑炊だ。
 小学生の頃から家事全般をこなしていた僕にとって、中でも料理は一番の得意分野だった。
 買ってきた骨付きの鶏肉を鍋に入れると、火を点けて出汁を取り始める。
 鍋が沸騰するまでの間に、他の食材を冷蔵庫に仕舞い、鍋の火を弱火にしたところで、僕はようやく着替えるために台所を離れた。

 僕には父がいない。
 父は、僕が小学生の時、飛行機事故で亡くなってしまった
 事故は、パイロットである父の操縦ミスが原因だったと報じられた。
 その報道のせいで、母も僕も酷い迫害を受けることとなった。
 家には中傷の手紙が毎日届き、非難の声や無言電話も続いた。
 近所の人は聞こえるように僕らの悪口を言い、常に白い目で僕らを監視しているように見えた。
 辛い日々ではあったが、当時住んでいた家は父との思い出が詰まったマンションだったから、母も僕もその家を離れたくなかった。
 だからこそ、近所の人の目も、中傷の手紙や電話も我慢し続けた。
 しかし、その日は突然訪れた。
 僕は、その時の母の言葉を未だに忘れられないでいる。
「ごめんね、翔平。この家から引っ越さなくちゃいけなくなったの……」
 まだ小学生だった僕を抱き締めながら、母は一晩泣き続けていた。

 引っ越しを決めた原因は、母の仕事にあった。
 母は小学校の先生をやっていた。
 事故当時、母が勤務している小学校が自宅から少し離れていたこともあり、父の過失だという報道がすぐに母の仕事に影響することはなかった。
 しかし、僕の同級生が塾で言いふらし、同じ塾に通っていた母の学校の生徒に知られてしまったため、あっという間に、生徒たちの親の耳にも届いてしまった。
 保護者たちが学校へ押し寄せ、「あの事故のパイロットの奥さんが先生だなんてどうかしてる!」というクレームが多数入ったらしい。
 幸い、校長や教頭は母を噂に惑わされることなく、母の人柄やこれまでの実績を認めてくれていたし、小学生の子を持つ母親であることを心配し、庇ってくれていたようだった。
 しかし、保護者たちを納得させるのは校長でも難しかった。
 校長は、我が家の事情を理解し助けてくれる校長がいる隣県の小学校を探し、転勤先として提案してくれた。
 僕らがそれを拒否できるわけもなく、ほどなくして引っ越すこととなった。

 そんなわけで、小学生の時に今のマンションに引っ越してきた。
 以前は母と分担して家事をこなしていたが、母は新しい学校の環境に馴染むのに苦労していたようで、なかなか家事にまで手が回らなくなっていった。
 疲弊していく母を見ていた僕は、自然と家事を手伝うことが増え、気付くと家事のほとんどを僕一人でこなすようになっていた。
 小学生の僕には洗濯機も台所のシンクやコンロも高さが合わず、家事をする時は踏み台が欠かせなかった。
 最初こそ不便に感じることも多く、一人で家事をすることに寂しさを覚えることもあったが、毎日繰り返しているうちに、いつの間にかそんなことを感じることもなくなっていった。
 ただ、父の生前より母の帰宅はずっと遅くなり、夕飯を一人で食べることも増え、なんとなく心にぽっかりと穴が開いたような虚しさに襲われていた。
 父がいなくて寂しい。
 母が一緒にいられなくて辛い。
 そんな気持ちを母に伝えようと何度も思ったが、一人歯を食いしばってがんばっている母の背中に弱音を吐けるわけもなく、僕はぐっと言葉を飲み込むしかなかった。
 父が亡くなるまでは、両親共に多忙な中でも家族全員で食卓を囲む機会はあった。
 たまにしかなかったものの、家族三人で食べるご飯はどんな食事よりも美味しく感じられた。
 父が休みの日は一緒に風呂に入ることもあった。
 少し恥ずかしかったが、普段一緒にいられない分、僕は父との風呂遊びが楽しみで仕方がなかった。
 母はそんな僕たちの姿を見て、いつも嬉しそうに微笑んでいたように思う。
 父も母も僕も、あの頃は本当に幸せだった。
 しかし、あの事故で僕らの生活は一変してしまった。
 母も、僕も、あの日から人生が変わってしまったのだ。


 トントントン。
 仕上げの葱を切る音で母が起き出した。
「母さん、寝てなよ」
 僕は振り向くこともせずに言った。
「いい匂いがしてきたから……。もう大丈夫よ。心配かけたわね」
 いつもの母は弱音を口にすることなどなかった。
 だから、そんな弱気な言葉を聞くのは気が滅入った。
 まるで重い病気を患っているように感じてしまうのだ。
「じゃあもうできるから、そこに座ってて」
 僕は持っていたおたまでダイニングを指すと、母が座ったのを見届けてから、先に温めておいたお湯でお茶を淹れる。
 母の前に緑茶を置くと、母は嬉しそうにありがとうと呟いた。
 母がゆっくりと緑茶を堪能している間に、用意しておいた食器に雑炊を注ぎ、昨日作り置きしておいたひじきを冷蔵庫から取り出した。
 食卓に雑炊とひじきを並べると、先に食べてと声をかける。
「美味しそう。いただきます」
 母の嬉しそうな声を聞きながら僕はキッチンに戻り、鶏の唐揚げを作り始めた。
「入学式はどうだった?」
 背後から母の声が聞こえた。
「うん、別にいつも通り」
 適当に答えてから、入学式にいつも何もないことに気が付き、なんだか気恥ずかしくなった。
「お友達は? できた? 担任の先生はどんな感じ?」
 小学校の先生をしているとは言え、母も僕のことになると母親の気持ちになってしまうようだ。
 高校生にもなって友達のことを心配するのもおかしな話だと思うが。
「そういえば担任はちょっと変わってたかな」
 号令のエピソードを話すと、母はクスッと笑って、私もそれ使ってみようかなと呟いた。
 母は本来なら、今年も小学校のクラス担任を受け持つ予定だった。
 しかし、春休みに入った頃から体調を崩し、定期的に通院する必要に迫られてしまった。
 主治医と相談した結果、担任を持つのは体的に負担が大きいことから、体調を整えることを優先し、担任は他の先生方にお任せすることになったとのことだった。
「で? 母さんは今日病院行ったの?」
 もう少し優しい言い方はなかったのだろうか。
 自分自身に問いかける。
 心の中には母に優しくしたいという気持ちがあるものの、口から出てくる言葉はぶっきらぼうなものばかりだった。
 世の男子高校生が優しい言葉で母を気遣うことができるものなのかは甚だ疑問ではあるが。
「今日は点滴してもらったよ。手術は今月末だし、体調を整えておかないとね……」
 僕は自分のために作った唐揚げを持って母の向かい側の席に座った。
 母はもうすでに食べ終わったようで、冷めたお茶を飲んでいた。
 完食とまではいかないものの、雑炊もひじきも半分以上食べられたようで、僕は幾分ホッとした。
「お茶、淹れるよ」
 精一杯の優しさを言葉で表現し、母の湯呑みを持ってキッチンへ戻る。
 もう一度お茶を淹れて母に渡すと、嬉しそうにお茶を飲み始めた母の傍で僕は遅れて食事を食べ始めた。
 母の病気は、現段階なら手術でどうにかなるらしかった。
 僕も唯一の身内として主治医と話をさせてもらったけれど、とても親身になってくれるいい先生だと感じたし、術後の経過をしっかり見ていけば大丈夫だと信じることが出来た。
 だから、手術そのものよりも、病気のことで母が幾分落ち込んでいるように見えることのほうが気になっていた。
 何度も母を励まそうと思ってはみたものの、今の僕では気の利いた言葉も見つからない。
 優しく接しようと試みても、気恥ずかしさが勝ってつっけんどんな態度になってしまう。
 母を目の前にすると、僕の心の中では毎回そんな葛藤が繰り広げられていた。
「母さん、お茶は?」
 湯呑みが空になっていることに気付き、もう一度声をかける。
 母は小さく首を振った。
 おそらく、僕が食事を終えるまで食卓を離れないのだろう。
 一緒にご飯を食べる時は、お互いが食べ終わるまでなんとなく同じ場所に居続ける。
 それが我が家では当たり前になっていた。
 母と共に食事ができる機会はそう多くはなかったので、母にとっても僕にとっても大切な家族の時間だったのだ。
 それでも、母に見守られながら食事をするのはなんとなく居心地が悪く、僕は急いで雑炊と揚げたての唐揚げ一気に頬張った。
「アチッ」
 うまくできた唐揚げは、噛んだ瞬間に肉汁が口の中に広がり、そのあまりの熱さに声が出てしまった。
 母は驚いて、冷蔵庫から冷たい麦茶を持ってきてくれた、
「ありがとう」
 それで口の中を冷やす。
 結局、やけどしてしまい、ゆっくりしか食事ができなくなってしまった。
 まったく逆効果である。
「そうだ。今週末からバイトするから」
 僕はさらっと伝えた。
 母はゆっくりと顔を上げ、少し考える素振りを見せてから答えた。
「お母さんが仕事ちゃんとできないから……」
 そんなことを言い出すと予想はしていた。
「母さんのせいじゃないよ。高校入ったらバイトするって前々から考えてたし」
 実際、母の状況を見てバイトをすることを決めたのは確かだった。
 母が体調を崩したことはただのきっかけに過ぎない。
 今まで母がどれだけがんばって僕を育ててきてくれたのか、多少なりとも分かっていたからこそ、高校生になったらバイトを始めて、少しでも母の負担を減らしたいと思っていた。
 入院費、手術代もバカにならない。
 保険や貯金があるにせよ、母が何も心配せずに体を治すことに専念できたらいいと思っていた。
「ほら、隣の駅に僕がよく行くカフェがあるの、知ってるだろ? あそこのマスターがバイト募集してるって言うからさ」
 そう言うと、ごちそうさまと手を合わせ、食器を片付けに席を立った。

 話は中学2年の頃に遡る。
 僕は、当時付き合っていた彼女の誕生日プレゼントを買うため、隣の駅前にあるおしゃれな通りを歩いていた。
 そこは、小さな店が立ち並ぶ少しおしゃれな場所だった。
 僕は彼女の好みそうな物を探していたのだが、そもそも彼女がどんな物を好きなのか、考えれば考えるほど分からなくなっていった。
 結局、通りの終わりが見え始める頃には、彼女の誕生日プレゼントをこの通りで探すこと自体を諦めていた。
 無難に大手の雑貨屋へ行って、女の子が好きそうなキャラクターグッズでも買うか。
 そんなことを考えながら惰性で歩いていると、おしゃれな店がなくなり、いかにも昔からあるような金物屋さんや年配の方向けの洋服屋さんが目につき始めた。
 ここらで引き返すか……と思った時、目の前に少し異質な店が見えた。
 外観はレンガで装飾が施され、二階部分は長く伸びた蔦で覆われていた。
 いかにも古めかしい印象ではあったが、決して「昭和時代」を連想させるような店構えではなく、どちらかといえば、ロンドンの古い街並みに似合いそうな雰囲気だ。
 とは言うものの、当然僕はロンドンに言ったことなどない。
 なぜ、ロンドンっぽいと思ったのかというと、実は店の看板を見たからだった。
 そこには「WATOSON(ワトソン)」と書かれていた。
 直感的に、シャーロック・ホームズを思い出した僕は、その店がホームズの住んでいたロンドンの街角にあるように見えた気がしたのだった。
 正直、外から見ているだけではなんの店だかよく分からない。
 ただ、外観から醸し出されている雰囲気と店名に惹かれた僕は、勇気を振り絞ってその店の扉を開けた。
 カランカラン。
 軽快なベルの音が鳴り響くと同時に、店内に充満していたコーヒーの香りが漂ってきた。
 目の前には可愛らしく美味しそうなケーキが並んでいた。
 店内は少し薄暗く、テーブル席が3つ、カウンターに5~6席しかないこぢんまりとした印象だ。
 各テーブルの上に置かれたアンティーク調のランプが間接照明の役割を果たしていた。
 中学生が一人で入るような店ではない。
 すぐにそう感じて引き返したくなった。
 しかし、カウンターの中にいるマスターらしき人と目が合ってしまった。
「どうぞ。いらっしゃい」
 四十代半ばだろうか?
 優しそうなその男性に興味を持ち、指し示されたカウンターの一番奥の席にゆっくりと腰をかけた。
 間違えました!などと言って即座に店から出てもよかったのだが、美味しそうなケーキとコーヒーの香り、それにマスターの優しそうな笑顔に負けてしまった。
「初めて……ですね。こんなに若い子が来ることはほとんどないので、一度でもいらっしゃったことがあれば覚えているはずですが……」
 マスターは気を遣ってくれたのか、僕に話しかけてくれた。
「あっ、初めてです……。偶然この店を見つけたもので……」
 僕は緊張しながらもマスターとの会話を続けた。
「そうですか。ぜひ、ゆっくりしていってくださいね。コーヒーとケーキにこだわった店ですので……」
 マスターは低く柔らかい声でそういうと、ケーキセットのメニューを広げてくれた。
 すぐに目に飛び込んできたのは、左下に描かれたホームズのシルエットだった。
 やはり、店名のワトソンはホームズからとったのだと分かり、僕は内心大喜びだった。
 何を頼もうか……。
 これからもう一度彼女への誕生日プレゼントを探しに行かなければいけない。
 金額的な不安が頭をよぎったが、その不安もすぐになくなった。
 ちょうどランチタイムが終わったところで、ケーキセットがお手頃な価格で提供されていたのだ。
 コーヒーもケーキもいくつか種類があり、僕は何を選べばいいか悩んでしまっていた。
「お決まりになりましたか?」
 少し時間を置いてから、マスターが僕に声をかけてきてくれた。
「あっ、じゃあケーキはこのチョコレートを。コーヒーはオススメでお願いできますか?」
 内心の動揺を隠しつつ、精一杯大人ぶって注文をした。
 注文を聞いたマスターは、低く優しい声でかしこまりましたと応えると、すぐにコーヒーを淹れる用意を始めた。
 豆を缶から取り出し、小さな古めかしい機械の上部にある筒のようなものの中に入れるとすぐに、大きな音が店内に響き渡る。
 時間にしたら数秒だろうか。
 音が止まると、マスターはその機械の下側にある引き出しを開けた。
 どうやら、先ほど入れた豆を機械で挽き、粉状になったものが入っているらしい。
 その粉を茶こしのような形の布に入れた。
 コンロに置かれた注ぎ口の細長いポットからは沸騰を知らせる湯気が上がると、マスターはそのポットをそっとコンロから下ろした。
 後から知ることになるのだが、豆を挽いた機械を電動ミル、茶こしのような布袋をネル・フィルターと言うらしい。
 これはネルドリップと呼ばれるコーヒーの淹れ方である。
 マスターは左手にコーヒーの粉が入ったネル・フィルターを、右手にポットを持ち、コーヒーの粉を中央から螺旋を描くように少しずつ注いだ。
 お湯を吸った粉が風船のように盛り上がってくる。
 さらに全体にお湯を少しずつ注ぎ続けると、コーヒーの最初の1滴が下にある小鍋のようなものに落ちた。
 徐々にお湯の量を増やしながら、フィルターへお湯を注いで行くと、小鍋には見慣れたコーヒー色の液体が溜まっていく。
 いつの間にかコーヒーの芳醇な香りが立ち上がっている。
 たった1杯のコーヒーを淹れるのに、こんなに手間がかかるということを知らなかった僕は、マスターの洗練された動きに見とれていた。
「お待たせしました」
 マスターの声で我に返ると、目の前に美味しそうなチョコレートケーキと、先ほどのコーヒーが並べられていた。
「いただきます」
 コーヒーにそっと口をつける。
 甘い香りがスッと広がり、ほどよい温かさのコーヒーが喉を通過するとき、さらに濃い香りが鼻の中に舞い上がってきた。
 今まで自分が飲んでいたコーヒーとは比べ物にならない。
「こういうコーヒーは初めてなのかな?」
 笑みを浮かべてさりげなく訪ねてきたマスターに、僕は黙って頷くしかなかった。
 コーヒーの余韻を楽しみながら、僕はチョコレートケーキをゆっくりとフォークで切り崩す。
 口に運ぶと、ほどよい甘さのチョコレート味と、コーヒーの酸味と苦みが混ざり合って、美味しさが倍増した。
 ケーキをこんなに美味しいと感じるのも初めてのことだった。
 食べ終わってしまうのが惜しいと思いつつ、どんどんと口に運んでしまった。
 頃合いを見計らったかのようにマスターが奥から出てきた。
「ごちそうさまでした」
 僕は一息ついて手を合わせた。
「美味しかったかい?」
 相変わらず優しく低い声でマスターが声をかけてくれる。
「はいっ。今までこんなに美味しいコーヒーもケーキも口にしたことはないです」
 正直な感想を口にした。
 マスターは小さく微笑んだ。
「それは嬉しいね。機会があったらまたいらっしゃい」
 僕はカップに少し残っていたコーヒーを飲み干すと、伝票を持ってレジに向かった。
 店を出る時、ありがとねとマスターが微笑みながら僕を見送ってくれていた。

 それからというもの、僕はワトソンの常連になっていった。
 どうやら、この店には常連がいくらかいるようだった。
 僕が行くのは、決まって土日の暇な時間で、僕を含めてだいたい2~3人の常連が銘々(めいめい)の定位置に座っていた。
 決して口数は多くないマスターだが、それでもコーヒーとケーキの味、店の雰囲気に魅了された人たちが集まっていた。
 僕はいつも、初めて来た時と同じカウンターの奥の席へ行き、バスケの雑誌を読みながら、ゆっくりコーヒーとケーキを堪能していた。
 たまにマスターと交わす会話や本当にわずかな言葉から、マスターの人柄がよく感じられた。
 そして、何よりもマスターが自分で仕込んでいるというケーキが絶品だった。
 どのケーキもクリームは甘すぎず、さっぱりと食べられるものばかりだった。
 僕はほぼ全てのケーキを食べ尽くしたが、いちばん好きなケーキはやはり初めてこの店に来た時に食べたチョコレートケーキだった。
 ほろ苦いチョコレートのクリームと、柔らかいスポンジが層になっているこのケーキは、普通のケーキ屋で買うどのケーキよりも美味しいと思う。
 こんなに美味しいケーキが自分で作れたら……。
 そんなことを思うようになっていた。

 僕が中学を卒業する間近、ワトソンはそのケーキの美味しさから、「隠れた名店」としてテレビで紹介された。
 取材は頑なに拒否していたマスターだったが、噂(うわさ)によると可愛い姪(めい)に強く説得されて承諾したようだった。
 予想通り店は大盛況になり、僕ら常連たちは自分の定位置が確保しづらくなっていた。
 当然僕の特等席もなかなか空かない。
 もともと小さな店内だ。
 全席が埋まるのは簡単なことだったのかもしれない。
 ある時、マスターは僕にボソッと呟いた。
「さすがに一人じゃあこの店も大変になってきたよ……」
 僕にとっては、渡りに船だった。
 もうすぐ中学を卒業する。晴れてバイトができるようになるのだ。
 何より、あの美味しいケーキの作り方とコーヒーの淹れ方を少しでも知りたかった。
「マスター。バイトとかは雇わないんですか?」
 僕はドキドキしながら聞いた。
「バイトねぇ。募集して選考するのにも時間がかかるからなぁ」
 マスターはコーヒー豆の買い付け、ケーキの仕込み、店の全てを一人で賄っていた。
 確かに、面接などは大変だ。
「僕……もうすぐ高校に入るんですけど、お手伝いしましょうか?」
 ちょっと控えめに言ってみた。
 自分で言ってから、バイトがやりたいってもっと強く言うべきじゃないかとかなんか上から目線になってないか?とか、少しやきもきしながらマスターの反応を見た。
 マスターは少し驚いた後、何かを考え込んでいた。
「確かに君はうちの味を知っているし、いいかもなぁ」
 それからしばらく、マスターは僕のコーヒーを淹れながら思案しているようだった。
 でき上がったコーヒーを僕の目の前に置くと、マスターが僕に話しかけた。
「鈴木くん、厨房とかできるかな?」
 僕は、待ってました!とばかりに自己アピールをし始めた。
「僕んち、前にも言ったように母子家庭なんで、家事全般を僕がやってるんです。洗い物とかは得意ですよ。それに、ここのケーキもコーヒーも大好きだから、作り方や淹れ方を覚えたいななんて……」
 マスターはまた少し考え込んでから答えた。
「それじゃあ、今度履歴書を書いて持ってきてもらってもいいかな? こちらも準備が必要だから、鈴木くんが高校に入学したら、休みの日にバイトしてもらおうか」
 マスターのその言葉に、僕は胸を躍らせた。
 それでも嬉しい気持ちを隠して、冷静を装って返事をした。
「はい。今度持ってきますね! ぜひよろしくお願いします!」
 こうして僕のバイト先は予想外に簡単に内定したのだった。

 僕は、夕食の洗い物をしながら、ワトソンとの出会いを思い出し、少しくすぐったい気持ちになっていた。
 母はそんな僕を心配そうな顔をして見ていた。
「大丈夫だって。今度母さんも来てみれば」
 僕は洗い物を終えると、母にお茶を淹(い)れ、自分の湯呑(ゆの)みを持って部屋に戻った。

 入学式があった週の土日から、僕は早速ワトソンでバイトを始めた。
 生まれて初めてのバイトだ。
 緊張もあったが、お客の半分はいつもの常連客さんだから、少し安心できた。
 それに店のことは、客として隅々まで知っている。
 値段やメニューも、自然に覚えていたのですぐに記憶できた。
 僕は厨房の洗い物だけでなく、ウェイターやレジなど、できることはなんでも挑戦させてもらった。
 
「おはようございます!」
 バイト2週目。
 ワトソンの勝手口から挨拶をしながら店内に入った。
 店内は既に電気がついており、見知らぬ女性がコーヒーを飲みながらマスターと話をしていた。
 歳は僕より少し上くらいだろうか。
 圧倒的な美人というタイプではなかったが、ほんわかとした雰囲気は女性的な魅力が感じさせた。
 開店前にお客さんかと思い、急いで用意をしようとすると、マスターが僕に声をかけた。
「鈴木くん、紹介するよ。僕の姪」
 マスターは、隣の女性を少し僕のほうに押し出した。
「あっ、前野香澄(まえの かすみ)といいます」
 女性はそう言うと、ペコリと小さくお辞儀をした。
「鈴木……翔平です……」
 僕は小さく会釈し、マスターを見た。
 姪ということは、例の取材を受けるよう強く勧めたという彼女かな。
 僕はそんなことをぼんやりと思い出していた。
「香澄はね、去年から製菓の専門学校に通ってるんだ。それで、僕のケーキを学びたいなんて言うんでね」
 去年から専門学校ということは、僕の4つ上ということだ。
 そんな歳上には見えない。
 正直、高校生でもおかしくないと思った。
「それで、鈴木くんと香澄の二人でバイトを切り盛りしてもらおうと思ってるんだ」
 マスターはそう言うと、細かいバイト内容の説明を始めた。
 僕は彼女と一緒にバイトをすることになるようだ。
「分かりました。よろしくお願いします!」
 精一杯の笑顔を作って彼女と握手を交わした。

 香澄は見た目以上におっとりタイプで、ウェイターやレジはあまり得意ではなさそうだった。
 最初は僕が厨房の予定だったのだが、結局香澄が厨房に入り、僕がウェイターやレジをやることになっていた。
 厨房の仕事も好きだったのだが、ウェイターとして接客をするのも勉強になったし、常連の人と簡単な言葉を交わすことができるのでさほど不満はなかった。
 僕がオーダーを通すと、オーナーがコーヒーを淹れ、香澄がケーキを準備した。
 持ち帰りの客には、僕がレジで応対している間に香澄がケーキを包んでくれていた。
 この店で3人は多いんじゃないかな?なんて最初は思っていたが、徐々に3人のバランスがちょうどいいとさえ思えるようになっていた。
「香澄も鈴木くんも、いつもありがとな」
 マスターは店の片付けをしながら声をかけてくれた。
「こちらこそ、楽しいですよ!」
 僕は精一杯の笑顔で答えた。
 事実、マスターと香澄と3人で店を切り盛りするのは、無理に働かされているという感覚が全くなかった。
「いつも鈴木くんに助けられてるのよ」
 香澄はそう言って、ありがとねと呟いて僕の頭をポンと撫でると、厨房の片付けに向かった。
 香澄のそういう言動に、僕はたまにドキッとする。
 まだ高校1年の自分には、ちょっと刺激が強かった。

「なあ、翔平。部活どうするよ?」
 健太は相変わらず馴れ馴れしく僕に話しかけてきた。
 入学式以来、僕は何故か健太に気に入られたらしく、ことあるごとに声をかけられ、一緒にいることが増えていた。
「健太はバスケだろ?」
 僕はあっさり言った。
 健太がバスケ部に入りたいというのは、周りに話しているのを聞いて分かっていた。
 中学でバスケに熱中していた僕としては、そんな健太の純粋さを少しうらめしく思っていた。
「お? 翔平分かってんじゃん。お前は?」
 健太は意地でも僕の部活を知りたいらしい。
「俺は部活入らないよ。バイトしてるし」
 幸い、ここは帰宅部を非難するような学校ではなかった。
 そもそも進学校だから、部活に精を出すより塾へ通う人のほうが多いというのが実態である。
「部活入らないのかよーー。バイトったって土日だけだろ?」
 健太が食い下がる。
「平日もいろいろ忙しくてな」
 母のことを話すほど、健太とはまだ親しくない。
 それに平日もバイトになるかもしれないのだ。
 だから、曖昧に答えた。
「おっ、忙しいって女か?」
 健太は相変わらず単純である。
 それしかないのかと思ってしまう。
 しかし否定するのも面倒だ。
 そのまま手をヒラヒラと動かし、健太を追い払った。
 健太はニヤニヤしながら、バスケ部の見学に向かった。
 僕も荷物をまとめ、さっさと教室を後にする。

 実は今日から母が入院するのだ。
 手術は明後日。
 しばらく入院生活が続く母のために、気がまぎれるものを何か買っていってあげようかと思い、学校帰りに本屋に寄った。
 しかし、母の好む本が分からない。
 まずは平積みになっている小説をパラパラと読んでみる。
 文字が小さいと目が疲れるだろうか?
 そんなことを考えていると、ポンと肩を叩かれ、驚いてカバンを足の上に落としてしまった。
「イテッ」
 声が出てしまったことが恥ずかしくなる。
「だ……大丈夫? 鈴木くん」
 僕を驚かしたのは香澄だった
 僕はカバンを拾い上げると、恥ずかしくなって俯いた。
「ごめんね、驚かしちゃったみたいで……」
 香澄は本当に申し訳なさそうな声を出した。
「いや、大丈夫です。いくらビックリしたからってカバン落とすとかないですよね」
 僕は精一杯強がって言った。
 それにしてもこんなところで香澄に会うとは思わなかった。
 バイトの時にしか顔を合わすことがなかったから、僕はコック帽をかぶった凛々しい香澄しか見ていない。
 今日はベージュ地にピンクの小花が散りばめられた女性らしい花柄のワンピースを着ていた。
 正直、可愛いなと反射的に思ってしまい、今度はドキドキする自分の心臓の音に気づかれはしないかと気が気ではなかった。
「こんなところで何してたの?」
 それは、僕が聞きたいことだったのだが。
 実は母のことはマスターにしか話していない。
 少し悩んだが、母の好む本を香澄なら選べるかもしれないと思い直し、僕は香澄に母の話をした。
 立ち話にしては少し重い話だったが、香澄は嫌がらずに耳を傾けてくれていた。
「それで、今日から入院するんで、母が好きそうな本を買おうと思って物色してたんです。でも何が好きか分からなくて……」
 香澄は神妙な表情で話を聞いていたが、しばらくすると次々と質問してきた。
「家事全般はお母様が?」
「いや、うちは僕が全部やってるから…」
 ふむふむと顎に手を当て、料理本はないなと小声で呟く。
「お仕事してたっけ? 何してらしたの?」
「小学校の先生だよ」
 なるほどねと手を組みしばらく考えている様子だった。
「家にいらっしゃる時は何してるのかな?」
「最近は寝てることが多いから、テレビ観てるとかかなぁ」
 僕の受け答えに、さらに質問が続く。
「テレビは何を? ワイドショー? サスペンス?」
「ああ、そういえば2時間ドラマとかよく観てるかも」
 香澄はそこでポンと手を叩き、僕の手を引いて別の棚へ移動した。
「絶対とは言いきれないけど、文章を読むのがお好きだったら、例えば海外サスペンスなんてどうかな……」
 そう言うと、その棚から香澄がいくつか選んで僕に渡した。
 しばらくその場で悩んでいると、香澄はまた僕の手を引いて、別の棚へ向かった。
 先ほどから自然と手を握られているのだけれど、僕は何故か一人でドキドキしていた。
 そんな場合じゃないはずなのに……。
「それか、少し精神的に落ち込んでるって言ってたから、こういう本もいいかも」
 そこには、可愛らしい装丁の本が並んでいた。
【落ち込んだ時に読む本】【あなたの言葉が私を救った】などなど。
 ちょっと直接的すぎやしないかと思ったが、手術前ならこういう本のほうが前向きになれるのかもしれないと思った。
 僕は無言でいくつかの本を手に取り、ゆっくり読んでみた。
 その中に、僕の好むあっさりとした装丁の本があった。
 家族、友人、上司、そういった人々からかけられた、忘れられない言葉が収録された本のようだ。
 文字も少し大きめで読みやすい。
 さっと読み進めていくと、ふと目にとまった言葉があった。
『息子の寝顔を見て、この子が生きていることが嬉しい』
 もしかしたらありがちな言葉なのかもしれない。
 でも、母親の気持ちを垣間見た気がして、胸が少し苦しくなった。
 次の章は逆に母親に向けての言葉だった。
『母さんがそこにいて、笑っていてくれればそれでいい』
 そう書かれていた。
 そして、補足のように投稿者のコメントがあった。
 投稿者の母親は脳卒中で倒れてしまい、半身不随、言葉も上手にしゃべることができなくなってしまった。
 そのために自分を卑下し続けていた母親に対し、父親がかけた言葉とのことだった。
 その家族の気持ちや愛情が、たった1行の言葉に詰まっている気がして、僕はうっかり涙ぐみそうになった。
 本についているしおりをそのページへ挟み、手にした本を買うことに決めた。
 香澄はずっと隣にいて、別の本を見ているようだった。
「ありがとう。いい本を見つけられました」
 僕は香澄にお礼を言った。
 香澄が持ってきてくれた小説は、術後元気になったら読んでもらおうと思い、一旦棚に戻し、僕はレジに向かった。
「そういえば、香澄さんの用事はなんだったんですか?」
 僕のレジ並びに付き合ってくれている香澄に声をかけた。
「あっ、忘れてた! ちょっと見てくるね」
 香澄は急いで別の本棚へ向かった。
 僕の質問は宙に浮いたままになってしまった。
 会計が終わり辺りを見渡すと、香澄がレジに並んでいるのが見えた。
 このまま会釈して帰ろうかとも思ったが、僕の買い物に付き合ってくれた香澄にキチンとお礼を言わなければと考え直した。
「何買うの?」
 香澄の後ろから手元を覗き込むように声をかけた。
「ひゃっ!」
 香澄は驚いて買おうとした本を落としてしまった。
「あっ、ごめんごめん」
 僕は笑いながら、香澄が落とした本を拾った。
 その本はやはりというべきか、コーヒー豆の本とお菓子の専門書だった。
 拾った本を重ねて渡すと、少し顔を赤らめた香澄が「ありがと」と言った。
 4つも年上なはずなのに、香澄のこういう仕草は本当に可愛らしい。
「香澄さん、今日はこのまま帰るんですか?」
 僕はもう少し香澄と一緒に話がしたいと感じていた。
 香澄は時計を見ると、少し考えてから答えた。
「今日はこの後おじさんのところに行くだけかな」
 おじさんとは当然マスターのことだ。
 バイトかな? と思ったが、確か今日はシフトに入っていなかったはずだ。
「バイト……ではないですよね。おじさんに会いに?」
 何か理由があるのかと不安になり、ちょっと詮索してしまった。
 僕が何かよからぬことを考えていると察したのか、香澄は笑って答えた。
「違う、違う。コーヒー飲むついでにこの本、読もうと思っただけよ」
 香澄はそう言うと、ちょうど会計の順番になったので僕の傍から離れていった。
 しばらく会計中の香澄を目で追う。
 会計が終わった香澄は、当たり前のように僕のところへ戻ってきた。
 僕はたったそれだけのことがなんだか嬉しい。
「ワトソン行くのかー。ちょっと香澄さんとお茶でもしようかなと思ったんですけど、二人でワトソンはなんとなく行きづらいですよね」
 僕がそう言うと、香澄もクスッと笑って言った。
「そうね。じゃあすぐそこのカフェでお茶しようか」
 香澄はこの辺りをよく知っているのだろうか。
 おしゃれなカフェへ僕を案内してくれた。

 店内はナチュラルな木でできた素朴な感じのカフェだった。
 メニューを見ると、スイーツがたくさんと紅茶が置いてあるようだった。
「ここは紅茶なんですね」
 香澄は頷いて言った。
「そうなの。おじさんのところはコーヒーだけでしょう? 紅茶が飲みたい時はここへ来るの」
 店員を呼びオーダーしてくれた。
 僕は何も言っていなかったのに、ちょっと食べたいと思っていた苺タルトを注文してくれていた。
「苺タルト、好きでしょう? 鈴木くん好きそうだから勝手に決めちゃった。ごめんね」
 香澄が僕の顔を覗き込むように見る。
 正直ありがたかった。
 こういう時決めるのが苦手だ。
 バイトの時も、終わった後にコーヒーとケーキをいただくことがあるが、毎回選ぶのが苦手でお任せしていた。
 香澄はそんな僕のことを見ていてくれたのだろう。
 その優しさと気配りは少し嬉しかった。
「むしろありがたいですよ。スイーツも紅茶も、選ぶの苦手だから……」
 香澄は少しホッとした表情をして微笑んだ。
 今までバイト先で見ていた香澄は少し不器用で、おっとりしたお姉さん。
 でも、今日はちょっと違う感じがする。
 少しおっちょこちょいで、いたずら好きで、でもすごく優しい女の子だった。
 4つも年下の僕が可愛いなんて言ったら失礼かもしれないが、本当に可愛いという表現が似合うなと思った。
 それに、香澄が頼んでくれた苺タルトはワトソンのそれとはまた違った美味しさがあった。
 アールグレイの紅茶もこんなにちゃんとしたものを飲んだことがなかったから、こっちも新しい発見だった。
「ワトソンでコーヒーを飲んだ時も驚きましたけど、ここの紅茶も本当に美味しいですね」
 感動してありのままを言うと、香澄は自分が褒められたように喜んだ。
「そうなの。ここの茶葉はすごく美味しくてね……」
 そう言うと、香澄は紅茶の茶葉について話し始めた。
 僕には少し難しかったが、それでもとても面白かったし、勉強にもなった。
 今度母に美味しい紅茶を淹れてあげよう。
 そんなことを考えほどだった
 それにしても、紅茶について話をしている香澄はとても生き生きしていて、見ているこっちが楽しくなってくる。
「あっ、ごめんね。話、おもしろくなかったよね」
 香澄はある程度話し終わったところで我に返ったようだった。
「いえいえ、おもしろかったですよ。ぜひ今度美味しい紅茶の淹れ方教えてください」
 僕が言葉を返すと、香澄は胸を撫で下ろしたようだった。
 ふと時計を見ると、母を病院へ送る時間が迫っていた。
「香澄さん、今日は本当にありがとうございました」
 僕は帰る準備をしながらお礼を言った。
 そんな僕を見て、香澄が少し残念そうな顔をしたように見えた。
「今日は母を病院へ連れていかなくちゃいけなくて……。今度バイト以外で、また一緒にご飯でも行きませんか?」
 僕は思いきって誘ってみた。
 香澄と一緒にいると楽しいなと感じていたから、もう一度この楽しい時間を過ごしたいという純粋な気持ちから出た言葉だった。
「お母様を大事にね。またご飯しましょ。おじさんには内緒ね!」
 香澄はそう言ってから、軽く指を口に当て内緒のポーズをしてみせた。
 こういうところが可愛いんだよなぁ。
 僕はちょっとドキドキしながら香澄と連絡先を交換して、お互いの家路についた。

おしまい

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