【未来編 A‐side】

 夕方の街に、慌ただしい足音が響いた。
 高層ビルが群集する大通りを、一人の少女が駆け抜けていく。ショートカットの髪が、息の切れ
た身体と共に揺れる。彼女はすれ違う人々に一切構うことなく、全力で走っていた。暮れかけて
橙色に変わった空を、高層ビルのガラスが反射していた。
 少女は背後に注意を向ける。追ってくる足音は未だ消えていない。つまらないミスをした、と彼女は
唇を噛んだ。今の状況は、彼女の不注意が招いたことだった。
 追ってきているのは、一見普通のスーツ姿で二十代くらいの若い男だった。しかしその右頬には、
アルファベットと数字の組み合わせでできた番号が刻まれている。
 それは人間ではない証だった。そして少女にとって、その存在に捕まってしまうのは避けなければ
ならないことだった。
 少女は必死に逃げていく。夕日の淡いオレンジ色に染まる街、技術が急激に発達し、彼女にとって
生き辛くなったその街の中を。

 その日も僕は、夕日がビルの谷間に落ちていくところをなんとなく眺めていた。
 最近、毎日かかさず行っているランニング。いつも同じ時間に同じルートを走っていて、そうすると
ちょうど日没少し前の時間に、夕日は僕の視界に現れる。
 初めてその光景に遭遇したときは、気分が高揚した覚えがある。けれど、今では慣れてしまって、
淡々と足を動かし続けるだけだった。早く終わらせて帰りたい。今じゃ頭の中にあるのはそれだけだ。
 元々、望んで始めたランニングではない。病院から言われて、渋々やっていた。運動はあまり
得意ではなかった。どちらかというと、部屋で本を読む方が好きだった。昔の僕だったら、ランニングなど
三日坊主だったかもしれない。
 昔の僕だったら。
 よぎった考えに、僕は顔をしかめた。できるだけ、考えないようにしていることだった。
 走っていく僕の呼吸に乱れは一切なかった。疲れを感じることもない。汗を流して、それがTシャツに
染み込んでいくこともなかった。それは確かに僕の身体が、以前とは変化していることを教えていた。
それでも、僕はそのことを無視し続けている。
 ランニングをしっかりとこなしているのも、早くこの身体に慣れて、前と変わらない生活を送るためだった。
 コースの折り返し地点は回っていた。あとは病院への帰り道を走るだけ。
 僕は、ある事情から入院生活を送っていた。だけどきちんとリハビリをしたおかげで、身体はもう普通に動く。
通常の生活に戻る日も近いはずだ。 ランニングコースの終盤にさしかかった頃、誰かがこちらに駆けてくる靴音が聞こえた。
それから一呼吸も置かない間に、足音の主がすごい勢いで僕を追い抜いていく。風を巻き起こすようなスピード。
仄かにいい香りもした。なんとなくその姿を目で追っていると、足音の主は歩道のでっぱりに足を取られ、
小さな悲鳴とともに、地面をゴロゴロと転がっていった。
 「うわ、大丈夫?」
 あまりに派手な転び方に、僕は思わず近寄って声をかけてしまった。うつ伏せに倒れているのは少女のようだった。
彼女は痛みに耐えているのか、もぞもぞと動いたあと、いきなり顔を上げた。
 振り向いた少女と目が合う。そして、僕は思わず息を呑んだ。
 まず最初に目に入ったのは、大きな瞳と長い睫毛だった。膝を擦りむいたらしい彼女の瞳は、
痛みに薄く潤んでいて、それが逆に、光を通した宝石のように綺麗に光って、僕の鼓動を強く脈打たせた。
その周りに添えられた睫毛は一本一本が整っており、真っ直ぐに通った鼻筋と合わせて、美麗さを強調している。
触らずとも柔らかさを感じさせる唇は、鮮やかな朱色に染まっていた。髪型はショートカットで、
肩の辺りで毛先が優しく揺れており、それが全体の秀麗な印象を少し幼げにしていた。
 白いブラウスにショートパンツの彼女は、擦りむいた膝を右手で押さえながら、威嚇の視線で
僕を見上げていた。そこには明らかな敵意があった。もちろん、僕に心当たりはない。
 「あんたも私を捕まえるの?」
 「へ?」
 「だって、あんた――」
 彼女の言葉は、最後まで続かなかった。足音がもう一つ、僕らのもとにやってきたからだ。
 「もういい加減、諦めて捕まりなさい。化け物のお姉さん」
 若い男の声。言葉の端々から棘を感じた。振り返ると、スーツを着た二十代くらいの男が立っている。
同時に、少女はバッと男から顔を背けて黙り込んでしまう。その様子は、顔を隠そうとしているように見えた。
 どう考えても少女のお友達、といった感じではない。少女はこの男に追われていたのか。
 不審な男の全身を観察して、僕は気づく。彼の右頬には忌々しいアルファベット、数字の羅列が刻まれていた。
同時に、なんで少女が僕に敵意を向けたのかも察しがついて、内心で腹が立つ。
 「ん、そこの人」
 スーツの男は、僕に話しかけているようだった。
 「なんですか?」
 僕は不機嫌さを隠さずに返事をした。警戒は怠っていない。男の目的がわからない以上、
いざというときには、事の成り行きをじっと窺っている少女を連れて逃げるつもりだった。
 「あなた、私の同類ですよね。そこの彼女を捕まえるの、手伝ってもらえませんか?」
 男は自分の頬を、人差し指で二、三度軽く叩いた。そこに刻まれているのは、製造番号である。
僕が一番触れられたくないところだった。意識しないように、忘れるように、と努力していることを
無神経に抉りだされて、不快感はいっそう増していく。
 「僕は人間だ」
 「何を言ってるんです。それなら、その右頬の番号はなんですか? あなたも、アンドロイドでしょう」
 アンドロイド。技術の進歩によって、遠目には人間とほぼ見分けがつかなくなったロボットのことである。
主に、人間の補助を目的として作られたそれらは、人間社会に受け入れられるようになっていた。
 しかしその単語は、僕の心をざらつかせる。僕は無意識に、右頬に刻み込まれている製造番号に手を当てていた。この番号のせいで、男の仲間だと思われたことが不快だった。
 「僕は人間だ!」
 苛立った僕は語気を強めて言った。目の前のアンドロイドは怪訝な顔をする。その表情と同じものを、
僕は今まで何度となく向けられてきた。
 機械の身体で、自分は人間だと主張する僕を刺す、何も知らない人々の視線、表情、態度。それを今、
アンドロイドにまで向けられて、頭を何か硬いもので殴られたようなショックを受けた。
 しかし、そこで狼狽えている暇はなかった。男が怪しい光を帯びた瞳で、じりじりと距離を詰めてくる。
彼の視線は、まだ顔を背けたままの少女に固定され、このままでは彼女の身が危ないのは明白だった。
男の狙いが少女を捕まえることだと分かった今、この場所に留まっている理由はない。少女は少し怪我をしているようだし、安全なところに逃がすために手を貸した方がいいと思った。見て見ぬふりができないわけじゃなかったけれど、それでは寝覚めが悪い。
 僕はうずくまったままの、少女の手を取ろうとしたが、
 「……触れちゃダメ!」
 僕が伸ばした手を、彼女は鋭く叫んで拒んだ。若干のショックを受ける。顔にも出ていたようで、
それを見た少女はぶんぶんっ、と否定するように首を横に振った。
 「あんたの好意を拒んだわけじゃなくて! ああ、でも、触れたらダメなの!」
 よくわからないことを言って立ち上がった少女は、僕とアンドロイドの男を交互に見る。
一瞬、何かを思案した様子の彼女は、結局どちらからも逃げることを選択したようで背中を向けて走り出した。
 少女は、建物と建物の間にある狭い路地の方に走っていった。恐らく、入り組んだ路地を利用して、
追手を振り切ろうと考えたのだろう。しかし、そこが袋小路であることを僕は知っていた。
ランニングを始めた当初、近道をしようとその路地に入ったことがあったからだ。
 男はすでに僕を無視して、少女を追いかけようとしていた。僕はタイミングを計って、
男が傍らを通り抜けようとしたところで、渾身の体当たりをお見舞いする。見事に命中して、男が吹き飛んだ。
その隙に僕は少女の後ろ姿を追いかけた。せめて、忠告だけでもしておこうと思ったのだ。
 彼女は膝をかばうように走っていて、距離を詰めるのに大した時間はかからなかった。
 「そこは行き止まりだよ!」
 路地に入る寸前で、僕は少女の手を掴んだ。そのまま、彼女を止めるために手を引っ張る。  
 そのときだった。僕の手に痛みが走った。反射的に手を離す。そのせいで、手を離された少女は、
支えを失ってまた地面に転がってしまった。
 「うわあ……ごめん」
 今度は仰向けに倒れ込んだ少女を見て、申し訳なく思いながらも、一体何が起きたのかと考える。
静電気のような感じだったが、痛みの強さがまるで違った。僕は彼女に触れた手を見た。
 そして、そこに広がる異様さに一瞬固まる。痛みを感じた部分が、全体的にうっすらと茶色く変色していた。
まるで、錆びついてしまったかのように。
 目の前で二度も転んだ少女は、仰向けのままで僕のことをじっと見ていた。怒っているのではなかった。
なんだか悲しそうな、そして申し訳なさそうな顔をしていた。
 「だから、触らないでって言ったのに」
 少女はそう言った。今の状況に彼女の言葉、そして僕の身体。併せて考えると、この不思議な
現象に一つだけ心当たりがあった。しかしそれは、都市伝説として聞いた噂話にすぎない。
そんなことが現実にあるとは信じられなかった。
 「あんた、私のことをちゃんとわかった上で助けてくれるなら、早くしてくれない? 
またさっきの男が来ちゃう。それともなに、私をただ転ばせるのが目的だったの?」
 「いや、ほんと、それはごめん」 
 僕がまた無意識に差し出した手を、鋭い視線で制して立ち上がった彼女は、僕に先導するように促す。
確かに今は逃げるのが先だった。
 少女がまた転んで機嫌が悪くならないことを祈りながら、僕は人混みに紛れて追手をまくべく、
彼女とともに人通りの多い街中を目指した。

 触れるだけで、アンドロイドを錆びつかせてしまう人間がいる。
 社会にアンドロイドが普及して、しばらくした頃から広まったそんな都市伝説があった。
正確には、身体の一部がアンドロイドを構成している特殊な金属と接触すると、その金属を錆びつかせるらしいが、そんな細かい補足も、噂話に説得力を持たせるためだけに作られたものだと思っていた。
 そんな信憑性のない話を僕がすぐに思い出したのは、ここ最近立て続けに、ある事件が起きていたからだ。
 この街のアンドロイドが無差別に襲われるという事件だった。『アンドロイド無差別破壊事件』
と名付けられたそれはここ最近、巷で話題の中心になっている。この事件は、器物損壊の一種でありながらも、人型のアンドロイドが酷く痛めつけられ、非常にショッキングな光景が繰り広げられたため、どのメディアも注目していた。
 襲われた時間、場所などは全て違っており、ただ一つ共通していたのは、壊れてしまったアンドロイドの身体、その至るところに錆びついた痕が見られることだった。中でも胸部は、錆が内部にまで到達しており、それが原因で、どのアンドロイドも修復不能になっている。
 犯人が見つかっていないこともあって、事件はすぐに件の都市伝説と結び付けられ、そこら中で話題になっていた。
当然、それは僕の耳にも届いていた。都市伝説の真偽はどうあれ、事件は実際に起こっている。
自分の身体のこともあり、気を付けなければというタイミングで、僕は出会ってしまった。
 その、都市伝説の少女に。

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